コミュ力とさようなら。


 最近良く聞く「コミュ力」っていう言葉。ついつい使いたくなりませんか。


 この言葉に軽い印象を受けるのはなぜでしょう。本来あって困る事のないコミュニケーション力。でもこの「コミュ力」が使われるのって、「…どうせコミュ力はない。」とか「コミュ力ある人は〜」といったものばかり。人を上げたり下げたりするものばかりで、的確な表現というよりはその言葉でまとめてしまおう、という気持ちが感じられる。なんでもかんでも自分のコミュ力がないせいだ、と卑下する事が恥ずかしく、レベルの低い答えかをあまり意識していない人も多いと思う。だからこの言葉を使う人を見ると、問題なのはコミュ力がないから、と片付けてしまうその思考回路であって、コミュニケーション能力自体ではないと感じる。
 本当は能力があるかもしれないのに、ただ少しだけ欠けて見える自分の点を誇張してコミュ力がないと表現するのは実に勿体ない。あるいは周りにあわせて、及び期待値を下げるために使う人もいるかもしれないが、同様にその人の評価を高めるものとはならない。注意したいのは、コミュ力高いね!と褒めたところで、相手も自分も得しないところだ。(相手の感じ方はそれぞれか、少なくとも自分はとしておこう)
 とまあ、持論を並べてみた。さっき使ったばかりだが、これからはコミュ力が低いので という前提は捨てようと思う。自分の能力から逃げてしまう人こそ、コミュニケーション能力が低いんだ。自分が分からなくて、相手がわかるかって。


 引き続き勉学に勤しみたいと思います。DDK初開催の流れ…?ですが、そこは将来性のある若者にまかせたい。どうせできないよね、とか言ってる人は来なくていいと思うし。そうやって枠にとらわれているからいつまでも溝があるだのなんだのと、大人からうるさく言われるんですよ。